死は、誰もが避けられる
ものではありません
仕事インタビュー
「がん哲学外来」創設者 樋野興夫の場合
さまざまな分野で活躍する一流の“仕事人”にお会いし、
その人ならではの「職務経歴書」を作成するまでのロングインタビュー。
今回、登場するのは、病理学者で「がん哲学外来」創設者の樋野興夫さん。
「がん哲学外来」とは、多忙な医療現場とがん患者やその家族との「すきま」を埋めるべく、予約制、無料で開設された「対話の場」。
病の不安や苦痛の対処法を一緒に探ることはもちろん、人生を見直す基軸となるような「言葉の処方箋」を贈っています。
2008年1月、順天堂医院内に設けられた「がん哲学外来」は、
またたく間に注目を浴び、わずか7年で3000人以上と面談したほか、今や全国80か所に拠点を設けてたくさんの患者さんに希望を与えています。
また、「言葉の処方箋」をまとめた著作
『明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい』(幻冬舎)は、がんに苦しむ人だけでなく、多くの悩める人の心を慰める書として注目を浴びています。
今回は、本の話はもちろん、
これまでに至る先生自身の人生についてもじっくり話を聞きました。
樋野先生のメッセージは、多くの人の心に響ことでしょう。
病理研究ひと筋30年。
私が生まれ育ったのは、島根県の鵜峠(うど)村というところ。出雲大社の北側にある、日本海に面した小さな村で、当然のことながら無医村でした。ところが私は小さいころから身体が弱く、大小さまざまな病気を患っていました。そのたびに母は、私を背におぶって隣村の診療所まで連れて行ってくれたんです。母の背中越しに見た景色、それから手に感じるぬくもりを含め、そのときの記憶は今も鮮明に思い浮かべることができます。「人生3歳にして医学の道を志す」、そのきっかけとなった記憶です。その後、年を重ねるごとに病気に苦しむ人をひとりでも多く救いたい、日本全国を医療の充実したメディカル・ヴィレッジで満たしたいと願うようになり、それが自分の役割であることを自覚していきました。
大学の医学部に進んだとき、私は医師ではなく、病理学者になる道を選びました。そのいちばんの理由は、出雲弁です。その後、間もなくして普通に標準語で話ができるようになりましたが、始めのころは言葉に強い訛りがありました。
今でも故郷の人と話をすると、出雲弁がまだ抜けていないと指摘されるほどで、出雲弁には独特のイントネーションがあり、早口でしゃべるのに向いていないんです。だから、患者さんと面と向かって話をしなければならない医師より、病理学者のほうが自分に向いていると考えたんですね。訛り以外の理由としては、出会った先生が優れた病理学者だったということもあります。
ともあれ、(財)癌研究会癌研究所(癌研)に入所して10年間は、患者さんから摘出したがん細胞を顕微鏡で診断する仕事に就きました。そのうちに病理学の奥深さ、発がん研究の重要性を認識し、気がついたら30年、病理ひと筋にやってきました。
患者さんと向き合うことで生まれた
順天堂医院は、早くもその夏に日本初の「アスベスト・中皮腫外来」を開設しました。私は、血液で中皮腫を診断するという手法(腫瘍マーカー)を開発していたこともあって、呼吸器外科の先生方とともに外来を担当することになりました。
それは、私が患者さんと面と向かって話をする、初めての体験でした。中皮腫は難治性のがんですから、そう診断することは患者さんにとって死亡宣告に等しいものです。治療を目的とした医療の範疇におさまるものではなく、残された人生を心静かに送り、穏やかな最期を迎えるのかという支援が必要となります。そうなると、医学の専門知識だけではダメで、哲学的な人間学の領域に知見を求めなければなりませんでした。
中皮腫外来で患者さんを診たのは約3か月間でしたが、そのときのことがずっと心に引っかかっていました。中皮腫に限らず、患者本人に通知することを原則とする「がん告知」はアメリカではすでに一般的に行われていましたが、日本では1990年代なかばに始まったばかりで、告知をしない例もまだ多かったし、告知しても実際の状態より軽い診断をするのも当たり前でした。
がんは、日本国民の2人に1人がかかり、3人に1人が亡くなる病気です。治療率では、約半数の人が治る時代になりました。残りの半数の人は治療がむずかしいにしても、あと2~3年早く発見されていたら、その7割は治るだろうと言われています。がん告知について言えば、「告げるか、告げないか」を議論する段階は過ぎ、「正確な事実をいかに伝え、どのように患者さんを援助していくか」を考えねばならない時期に入っていたのです。しかし、「3時間待って、診察は3分」などと言われてしまうように、日本の大病院の医師は慢性的に多忙で、患者さん一人ひとりに向き合っている時間がないのが実状です。
そんな中、「がん哲学外来」というキーワードが頭の中に浮かぶようになっていました。がんと診断され、いろいろと治療を試みたがどうやら治る見込みはないとわかった患者さんと向き合い、不安や悩みをじっくりと聞き、生きる希望を取りもどすために勇気づける専門外来です。
始めのころは、そんな医療行為とは直接関係のない機関が実現するはずがないと思われたはずですし、私も半分くらいはそう思っていました。ただ、2006年にがん対策基本法が制定され(翌年に施行)、全国の自治体などにがん対策の推進がうながされるようになると、私のアイデアは現実味をおびてきました。そして2008年1月、順天堂医院に「がん哲学外来」が開設されることになったのです。
その人ならではの「職務経歴書」を作成するまでのロングインタビュー。
今回、登場するのは、病理学者で「がん哲学外来」創設者の樋野興夫さん。
「がん哲学外来」とは、多忙な医療現場とがん患者やその家族との「すきま」を埋めるべく、予約制、無料で開設された「対話の場」。
病の不安や苦痛の対処法を一緒に探ることはもちろん、人生を見直す基軸となるような「言葉の処方箋」を贈っています。
2008年1月、順天堂医院内に設けられた「がん哲学外来」は、
またたく間に注目を浴び、わずか7年で3000人以上と面談したほか、今や全国80か所に拠点を設けてたくさんの患者さんに希望を与えています。
また、「言葉の処方箋」をまとめた著作
『明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい』(幻冬舎)は、がんに苦しむ人だけでなく、多くの悩める人の心を慰める書として注目を浴びています。
今回は、本の話はもちろん、
これまでに至る先生自身の人生についてもじっくり話を聞きました。
樋野先生のメッセージは、多くの人の心に響ことでしょう。
病理研究ひと筋30年。
きっかけは、小さなころの記憶
樋野先生は、どうして医学の道を志したのですか?
樋野 その質問に答えるには、かなり古いころの記憶にさかのぼらなければなりません。物心がつくか、つかないころの記憶です。私が生まれ育ったのは、島根県の鵜峠(うど)村というところ。出雲大社の北側にある、日本海に面した小さな村で、当然のことながら無医村でした。ところが私は小さいころから身体が弱く、大小さまざまな病気を患っていました。そのたびに母は、私を背におぶって隣村の診療所まで連れて行ってくれたんです。母の背中越しに見た景色、それから手に感じるぬくもりを含め、そのときの記憶は今も鮮明に思い浮かべることができます。「人生3歳にして医学の道を志す」、そのきっかけとなった記憶です。その後、年を重ねるごとに病気に苦しむ人をひとりでも多く救いたい、日本全国を医療の充実したメディカル・ヴィレッジで満たしたいと願うようになり、それが自分の役割であることを自覚していきました。
大学の医学部に進んだとき、私は医師ではなく、病理学者になる道を選びました。そのいちばんの理由は、出雲弁です。その後、間もなくして普通に標準語で話ができるようになりましたが、始めのころは言葉に強い訛りがありました。
今でも故郷の人と話をすると、出雲弁がまだ抜けていないと指摘されるほどで、出雲弁には独特のイントネーションがあり、早口でしゃべるのに向いていないんです。だから、患者さんと面と向かって話をしなければならない医師より、病理学者のほうが自分に向いていると考えたんですね。訛り以外の理由としては、出会った先生が優れた病理学者だったということもあります。
ともあれ、(財)癌研究会癌研究所(癌研)に入所して10年間は、患者さんから摘出したがん細胞を顕微鏡で診断する仕事に就きました。そのうちに病理学の奥深さ、発がん研究の重要性を認識し、気がついたら30年、病理ひと筋にやってきました。
患者さんと向き合うことで生まれた
「がん哲学」という考え
患者さんと直に接することなく、病気の原因を研究してきた樋野先生が、どうして「がん哲学外来」を開設することになったのですか?
樋野 最初のきっかけは、2005年6月に起こったクボタショックです。大手機械メーカーのクボタの工場で、アスベスト(石綿)を使った水道管や建材を製造していた従業員の多くが、中皮腫という胸膜や腹膜にできる悪性腫瘍で亡くなったことが報道され、大きな社会問題になりました。順天堂医院は、早くもその夏に日本初の「アスベスト・中皮腫外来」を開設しました。私は、血液で中皮腫を診断するという手法(腫瘍マーカー)を開発していたこともあって、呼吸器外科の先生方とともに外来を担当することになりました。
それは、私が患者さんと面と向かって話をする、初めての体験でした。中皮腫は難治性のがんですから、そう診断することは患者さんにとって死亡宣告に等しいものです。治療を目的とした医療の範疇におさまるものではなく、残された人生を心静かに送り、穏やかな最期を迎えるのかという支援が必要となります。そうなると、医学の専門知識だけではダメで、哲学的な人間学の領域に知見を求めなければなりませんでした。
中皮腫外来で患者さんを診たのは約3か月間でしたが、そのときのことがずっと心に引っかかっていました。中皮腫に限らず、患者本人に通知することを原則とする「がん告知」はアメリカではすでに一般的に行われていましたが、日本では1990年代なかばに始まったばかりで、告知をしない例もまだ多かったし、告知しても実際の状態より軽い診断をするのも当たり前でした。
そんな中、「がん哲学外来」というキーワードが頭の中に浮かぶようになっていました。がんと診断され、いろいろと治療を試みたがどうやら治る見込みはないとわかった患者さんと向き合い、不安や悩みをじっくりと聞き、生きる希望を取りもどすために勇気づける専門外来です。
始めのころは、そんな医療行為とは直接関係のない機関が実現するはずがないと思われたはずですし、私も半分くらいはそう思っていました。ただ、2006年にがん対策基本法が制定され(翌年に施行)、全国の自治体などにがん対策の推進がうながされるようになると、私のアイデアは現実味をおびてきました。そして2008年1月、順天堂医院に「がん哲学外来」が開設されることになったのです。
苦しみは忍耐を生み、忍耐は品性を生む。
品性から生まれた希望は決して失わない
「がん哲学外来」では、患者さんに対してどんなことを行っていますか?
樋野 患者さん本人が一人でくるケースもありますが、家族を伴ってくる方も多いです。がんの悩みは本人だけでなく、夫婦間や親子間などの人間関係にも大きく影響するからです。予約をしていただければ、いつでも無料で受け付けています。私と患者さんの間にあるのは、お茶とお菓子だけ。カルテや聴診器、紙もペンも使いません。30分から1時間、たっぷりと時間をとって、医師としてではなく、専門知識を持ったひとりの人間として患者さんたちと向き合います。
カウンセリングでは、相手の話に耳を傾ける「傾聴」という態度が重要視されますが、がん哲学外来では「対話」を心がけています。人に悩みを聞いてもらうことで気分がすっきりするのは確かですが、それは一時のことに過ぎません。患者さんの中には、自分の悩みを言えるような状態ではなく、「とにかく来た」という方も多いのです。そんなときは、「今日はどうしましたか?」などと切り出すのではなく、世間話をしながらリラックスしていただき、少しずつ今の状態を聞き出していかねばなりません。
聖書には、こんな言葉があります。「艱難(かんなん)が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ人への手紙 5章3-5節)。品性から生まれた希望は、決して失望に終わることはないといいます。
こうした「言葉の処方箋」が、がんという苦しみを希望に変える手助けをしてくれます。副作用はないし、何より効き目があります。ただ、万人に聞く言葉というものはなく、患者さんの症状や悩みの種類に応じて臨機応変に変えていかねばなりません。「傾聴」だけでなく、「対話」を重んじるというのは、そういう わけです。
先人たちの「偉大なる言葉」が
「言葉の処方箋」の成分となる
先生の「言葉の処方箋」は、がん患者はもちろん、その他の悩みを抱えている多くの人にも「効く」と評判です。どうしてそんなに効くのですか?
樋野 人の悩みに向き合うには、中途半端な姿勢ではいけません。「よけいなお節介ではないか」などと腰が引けていては、相手の心に響く言葉は生まれないでしょう。ですから私は、「偉大なるお節介」をいつも心がけています。自分から「偉大」を名乗るおこがましさは、いったん忘れておきます(笑)。そのとき、私の拠り所となるのは、若いころから暗記するくらい、繰り返し読んできた先人たちの言葉です。
京都での浪人時代、私はある人からこんなアドバイスを受けました。「将来、自分が専門とする分野以外の本を、寝る前に30分読む習慣を身につけなさい」と。毎朝、顔を洗い、歯を磨くように本を読むことを習慣にすれば、苦痛なく学ぶことができるというわけですね。その人は、東大法学部の出身で、戦後初の東大総長をつとめた南原繁(1889~1974)から直接教わったことがあり、薦めに従って10巻におよぶ『南原繁著作集』(岩波書店)をはじめ、さまざまな著作を読み始めました。30分間では足りず、夜を徹して読むこともしばしばでした。
こうして読んだ本の中に、新渡戸稲造(1862~1933)について語った、こんな言葉に感銘を受けました。「何かをなす(to do)の前に何かである(to be)ということをまず考えよということが(新渡戸稲造)先生の一番大事な教えであったと思います」。また、「明治、大正、昭和を通じて、これほど深い教養を持った先生はなかったと言ってよい」という言葉も見つけました。南原繁がそこまで尊敬している人物はいったい、どんな人なのだろうと知りたくなり、新渡戸稲造の本も読むようになりました。
南原繁は、内村鑑三(1861~1930)にも強い影響を受けていました。新渡戸稲造と内村鑑三のふたりは、ともに札幌農学校に学び、キリスト教の洗礼を受けるという共通点がありながら、ものの考え方や人生哲学には相反するところもあって、私はどちらの思想にも触発されました。
気まぐれに乱読するのではなく「南原繁→新渡戸稲造→内村鑑三」という「出会いの連鎖反応」とも言える作用に従って知識を積み重ねていったのです。連鎖反応はそこで終わることなく、新渡戸と内村の二人に強い影響を受けたという経済学者の矢内原忠雄(1893~1961)の著作にも進んでいきました。
こうした先人たちの「偉大な言葉」が、私の「言葉の処方箋」の成分として生かされています。
人生のすべてが
「がん哲学外来」に結びついていた
2008年1月にスタートした「がん哲学外来」は、どんな反響を呼びましたか?
樋野 実は、 「外来」といっても無料ですから病院側が開設することを認めてくれただけで驚いていましたし、それほど多くの患者さんが来るとは思っていませんでした。1日に4組くらいで週に1度なら、研究活動や学生の講義の合間にやっていくには丁度いいだろうとタカをくくっていたんです。ところが、フタ開けてみると病院の予約受付がびっくりするほどの反応がありました。1日に4組どころか、倍の8組の相談に応えていかないと対応できないくらいの予約数でした。面談は1組につき30分から1時間ですから、朝から夕方までの8時間、「がん哲学外来」に付きっきりになりました。出雲弁を気にして病理学者を選んだ私にとって、思いがけないことになりましたが、もしかすると3歳のときに医学の道を志した時点でこのことは決まっていたのではないかと思うこともあります。
患者さんに「偉大なるお節介」をするには、先人たちの「偉大なる言葉」が必要不可欠ですが、それ以前に必要なのは、人に関心を持つということ。それがないと、その人の人生に立ち会い、寄り添うことができないからです。
島根県の鵜峠村で育った私は、そのことの大切さを知らず知らずのうちに教わっていました。娯楽の少ない土地ですから、夏休みは海で泳ぐくらいしかありません。泳ぎに飽きると、海辺で石投げをするのが常でした。仲間がいるときは気づきませんでしたが、一人で遊んでいるとき、20~30メートルくらい離れたところで夕涼みの老人が私のことを見ているのに気づきました。1人だけでなく、2人、3人といて、誰かが必ず私の姿を遠くから見ているんです。ただ見ているのではなくて、私が波にさらわれたり、危ない目に合わないように見守ってくれているんですね。その反対に、いたずらが見つかったときは、自分の親でなくても本気で叱られました。子どもの少ない地域でしたから、みんな一緒になって私の成長に気をかけ、見守ってくれていたんです。
そう考えてみると、病理学者としてがん細胞を専門的に研究してきたことも、「がん哲学外来」には大いに関係があるし、人生のすべてがそこに結びついているように感じるんです。
2009年には「NPO法人がん哲学外来」(現・一般社団法人がん哲学外来)が設立され、「がん哲学外来」はメディカル・カフェという形で全国に広がりました。病院での常設に加え、地域の有志による運営などを含めると、80以上の拠点を持ちます。これからもさらに拠点を増やして、少しでも多くの患者さんや家族の方々の力になること。それが私に与えられた使命だと思っています。
がんとの「共存」が実現すれば、
人類はがんを克服することができる
ところで、がんという病気がこの地上から消えてなくなる日は来るのでしょうか?
樋野 がん研究の目標は、がんを根治することですが、現時点ではまだそこに至っていません。というのも、がんは遺伝子の変異(異常)によって起こりますが、それは細胞分裂の過程での誤りですから、がんを完全に防ぐには細胞分裂を止めるしかありません。しかし、すべての生物にとって「細胞分裂=生きる」ということですか ら、それを止めることは不可能なのです。つまり、生きている以上、がんは避けられないものです。しかし、これを「死に至る病」から遠ざけることは可能だと私は思っています。すなわち、がんと「共存」するという方法です。
人間の身体は60兆個の細胞からできているといいますが、そのうち1個の細胞が分裂の過程でがん化します。ボタンのかけ違いが始まるわけです。がん細胞1個の大きさは、正常細胞とほぼ同じで20ミクロン。顕微鏡でしか見ることのできないほどの大きさですが、この段階ではがん細胞が身体に与える影響はほとんどありません。では、1個のがん細胞がその後、細胞分裂を繰り返して死に結びつく臨床がんになるにはどれくらいの時間がかかるのかというと、10年から20年、ものによっては30年以上もかかることがあるのです。仮に40歳で身体に変調をきたし、がんが見つかったとしたら、そのがん細胞は10歳から30歳のころにできたと考えることができます。
1個20ミクロンのがん細胞が10億個に成長するには、理論上30回の細胞分裂が必要です。10億個というと、すごい大きさのように感じるかもしれませんが、直径1センチ、重さは1グラムくらい。この程度のがんは「早期がん」といって、まず心配はいりません。がんの治療法には外科手術(切除)、化学療法(抗がん剤)、放射線療法などがありますが、ほとんど治ると言って差し支えないでしょう。ただし、がん細胞はある程度の大きさになると分裂のスピードをあげる特徴があって、その後、10回の細胞分裂で1キログラム、1兆個に成長し、死に直結する「臨床がん」になります。
このことからわかるのは、がんは早期に発見して治療するか、細胞分裂の進行を遅らせることで「死に至る病」から遠ざけることができるということです。
例えば前立腺がんは、別の死因で亡くなった老人男性を病理解剖してみると、よく見つかることがあるがんです。女性の場合は、甲状腺がんがそれにあたります。このように、亡くなってから見つかるがんを一般的に「潜在がん」と呼びますが、癌研の所長をしておられた北川知行先生は「天寿がん」という考え方を提唱されていました。つまり、身体の中にがんを持っていても、それを原因に亡くなるのではなく、老衰や別の病気で天寿をまっとうするという生き方です。もし、がんの成長を遅らせる技術が進めば、「天寿がん」のようなケースは増えていくでしょうし、がんとの「共存」はきっと可能になると私は考えています。
もし余命宣告を受けたら、
私もショックを受けるでしょう
もし、先生ご自身が余命宣告を受けたとして、そのときはどんなことを考えると思いますか?
樋野 多くの がん患者さんと同じく、私もショックを受けるでしょう。まずは、がんであることを受け入れることから始めて、次に人生の優先順位を考えると思います。誰かに任すことのできる仕事があれば、どんどん任せてしまいます。もしかすると、自分にしかできない仕事などは一つもなくて、まったくの暇(ひま)になってしまうかもしれません。でも、それも案外悪くない状態だと私は思いますよ。私は週に1回、800字ほどの短い文章を書くことを習慣にしています。小学5年生のときに、担任の先生に「日記をつけなさい」と言われて、それからずっと続けている習慣です。文章を書く習慣を持つと、日々の出来事を丁寧に観察するようになります。ですから、「がん哲学外来」に来る患者さんにも、文章を書くことを薦めることが多いです。800字がむずかしければ、200字、400字と増やしていけばいい。忙しくしているときには、書く時間など持つことができないと思う人も多いかもしれませんが、習慣づければ、苦もなく書けるようになるはずです。
そうやって日々を丁寧に観察してみると、何でもない日々の生活が貴重なものに思えてくるはずです。自分と人の人生を比較して、みじめな思いをしたり、嫉妬することもないでしよう。
「明日世界が滅びるとしても、今日私はリンゴの木を植える」
これは、マルティン・ルターが言ったといわれている言葉です。ルター自身が書き残したものではなく、口伝てで今に伝わった言葉です。私はこれを患者さんにも伝わるように、「もし明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい」とアレンジしました。
私にとって、「花に水をあげる」行為がどんなものかを考えてみると、「愛」という文字が浮かびます。人が決して死を避けられないのと同じように、人は自分一人では生きられません。人とのつながりの中で生かされている。人に関心を向けること、人を愛すること、そのことを最期の瞬間まで私は続けていくことで しょう。
氏名
樋野興夫(ひの・おきお)職業
医学博士、病理学者、「がん哲学外来」創設者生年・出身地
1954年、島根県出雲市大社町鵜峠生まれ現職
順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授順天堂大学大学院医学研究科環境と人間専攻分子病理学教授
日本癌学会理事
日本家族性腫瘍学会名誉理事長
一般社団法人がん哲学外来理事長
日本結節性硬化症学会 理事長
略歴
1979年、愛媛大学医学部卒業1979~1980年 愛媛大学第二病理学教室 助手
1981~1984年 (財)癌研究会癌研究所病理部 研修研究員
1984~1991年 (財)癌研究会癌研究所病理部 研究員
1984~1985年 米国アインシュタイン医科大学肝臓センター
1989~1991年 米国フォックスチェース癌センター
1991~2004年 (財)癌研究会癌研究所実験病理部 部長
2003年~ 順天堂大学医学部第二病理(現:病理・腫瘍学) 教授
2005年~ 「アスベスト・中皮腫外来」が順天堂医院内に開設。
2008年~ 自ら提唱した「がん哲学外来」を順天堂医院内に創設。
2013年7月3日、「一般社団法人 がん哲学外来」設立。
がん哲学外来とメディカル・カフェ(がん患者や家族の安心につながる対話の場)の開催、 がん哲学外来の活動を広く周知するための広報と啓発活動、 がん患者、一般市民を対象としたシンポジウムやセミナーの開催などを通じ、 医療現場と患者および関係者との隙間を埋める活動を続けている。
主な著書
・『われ21世紀の新渡戸とならん』(2003年11月/イーグレープ・刊)一般向けに初めて出版した処女作。
・『がん哲学―がん細胞から人間社会の病理を見る』(2004年3月/to be出版)
「がん哲学」を初めて解説した著書。
・『がん哲学外来入門』(2009年3月/毎日新聞社)
がん細胞を科学的に知ることから始め、人生の領域に理解を進める「がん哲学」入門書。
・『いい覚悟で生きる:がん哲学外来から広がる言葉の処方箋』(2014年10月/小学館)
がん哲学外来の「言葉の処方箋」をまとめた金言集。
・その他、多数
『明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい』
命よりも大切なものがある。
あなたの品性ある人生こそ、大切な人への贈り物なのです。
メスも薬も使わず、3000人以上のがん患者と家族に生きる希望を与えた「がん哲学外来」創始者の心揺さぶる言葉の処方箋。
「命より大切なものはない」とは考えないほうがいい。 命が尊いことは確かですが、命が一番大切と考えてしまうと、 死はネガティブなもの、命の敵になり、 あるときを境に死におびえて生きることになります。 自分以外のもの、外に関心を向けてください。 そうすれば、あなたに与えられた人生の役割や使命が見えてくるのです。
第1章 人生の役割をまっとうするまで、人は死なない
第2章 自分の人生を贈り物にする
第3章 本当に大切なものはゴミ箱の中にある
第4章 命に期限はありません
第5章 最後に残るものは、人とのつながり
第6章 小さな習慣で心が豊かになる
取材・文/ボブ内藤
写真/松谷祐増(TFK)
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